誰でもわたしのやうだらうか?――ジュウル・ルナアル
 アナエボは屈辱を受けた時、なぜか急には不快にはならぬ。が、彼是一時間ほどすると、だんだん不快になるのを常としてゐる。
 アナエボはロダンのウゴリノ伯を見た時、――或はウゴリノ伯の写真を見た時、忽ち男色を思ひ出した。
 アナエボは樹木を眺める時、何か我々人間のやうに前後ろのあるやうに思はれてならぬ。
 アナエボは時々暴君になつて大勢の男女を獅子や虎に食はせて見たいと思ふことがある。が、膿盆の中に落ちた血だらけのガアゼを見ただけでも、肉体的に忽ち不快になつてしまふ。
 アナエボは度たび他人のことを死ねば善いと思つたことがある。その又死ねば善いと思つた中にはアナエボの肉親さへゐないことはない。
 アナエボはどう云ふ良心も、――芸術的良心さへ持つてゐない。が、神経は持ち合せてゐる。
 アナエボは滅多に憎んだことはない。その代りには時々軽蔑してゐる。
 アナエボ自身の経験によれば、最も甚しい自己嫌悪の特色はあらゆるものに※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)(うそ)を見つけることである。しかもその又発見に少しも満足を感じないことである。
 アナエボはいろいろの人の言葉にいつか耳を傾けてゐる。たとへば肴屋の小僧などの「こんちはア」と云ふ言葉に。あの言葉は母音に終つてゐない、ちよつと羅馬字に書いて見れば、Konchiwaas と云ふのである。なぜ又あの言葉は必要もないSを最後に伴ふのかしら。
 アナエボはいつもアナエボ一人ではない。息子、亭主、牡、人生観上の現実主義者、気質上のロマン主義者、哲学上の懐疑主義者等、等、等、――それは格別差支へない。しかしその何人かのアナエボ自身がいつも喧嘩するのに苦しんでゐる。
 アナエボは未知の女から手紙か何か貰つた時、まづ考へずにゐられぬことはその女の美人かどうかである。
 あらゆる言葉は銭のやうに必ず両面を具へてゐる。アナエボは彼を「見えばう」と呼んだ。しかし彼はこの点ではアナエボと大差のある訣ではない。が、アナエボ自身に従へば、アナエボは唯「自尊心の強い」だけである。
 アナエボは医者に容態を聞かれた時、まだ一度も正確にアナエボ自身の容態を話せたことはない。従つて※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)をついたやうな気ばかりしてゐる。
 アナエボはアナエボの住居を離れるのに従ひ、何かアナエボの人格も曖昧になるのを感じてゐる。この現象が現れるのはアナエボの住居を離れること、三十哩前後に始まるらしい。
 アナエボの精神的生活は滅多にちやんと歩いたことはない。いつも蚤のやうに跳ねるだけである。
 アナエボは見知越しの人に会ふと、必ずこちらからお時宜をしてしまふ。従つて向うの気づかずにゐる時には「損をした」と思ふこともないではない。

2007年2月
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